「最年少市議会議員の夢」
―市議会議員 宮﨑たけし氏―


 

「夢を見た日本人」

 
私たちには、夢があった。空を飛ぶ車。雲を突き抜けるビル。私たちは、東京なんて憧れでもなんでもなかった。どこにでもある地方都市でそれは、子どもたちが当時語っていたストーリーだ。 プラザ合意を経て 1989年から始まる日本は作りたての鉄のような熱を持ち、世界でもっとも経済的に豊かな国になった。 しかし、突然ストーリーは崩れた。東京にいる偉い大人たちの手によって、熱い鉄は冷やされ続けた。空想の世界を夢見る子どもたちにとってその難しいロジックは到底理解できない話だった。
 
私たちは今、地方都市にある昭和にできた繁華街を歩く。ここ佐賀にもその現実が横たわってしまった。子どもたちは故郷に失望し、華やかな東京や大阪、福岡に向かった。筆者もその一人だった。
 

「宮﨑にとっての母という存在」

 
 宮﨑たけし市議会議員は、「唐人町商店街」という、当時最先端のインフラと人ごみであふれる都市空間で育った。  彼が生まれた家は、ある美容室。佐賀で屈指の売り上げを計上する店舗の店主宮﨑照子さんは、佐賀にあった喧騒の中で、宮﨑たけしを生んだ。子どものために、母は店の拡大をやめて経営を最小限にし、ひたすら宮﨑と向き合った。彼女は、心を鬼にして息子を育てた。宮﨑は当時の母を、「火の玉のような女性、辛抱強い女性だった」と述懐する。
 
 

 「世間に恩返しできる人間になれ」

 
母は幼い頃から宮﨑にいい続けてきたことがある。
「世間のためになにができるのかを 考えることが大切なのよ、たけし。」
照子さんにはある考えがあった。当時シングルマザーとして子どもを育てる家庭は少なかった。
「たけし、寝る間も惜しまず勉強をして世間に感謝される仕事につくのよ。」母は、反骨精神を宮﨑に叩き込んだ。
 

「僕は政治家になる」

 
転機は、小学校   6年生の時だった。当時佐賀市議会で企画された「子ども議会」に、勧興小学校代表として参加し、今の職場である議場で、小学生として弁をふるった。  声が大きい、内容もしっかりしている。周囲は一斉に褒めた。
 
子ども議会が終わったころ、一人の名もない老人がロビーで宮﨑に近づいてきた。「どうだった?」と。「恥ずかしかった。」とはにかみながら答えた。
 
老人は大声で叱った。「恥ずかしいとはどういうことか。君はみんなの代表で人の意見を言ったんだろう。」  宮﨑は悔しさのあまり、その場で泣き出してしまった。母に帰って老人から言われたことを伝えた。母は、それが政治。もっと胸を張らないといけない世界なんだと、さとした。宮﨑は、気づいた。人の総意を人前で発言する責任、これこそが、彼が幼い頃から抱いてきた世間のために恩返しする方法だと強く感じた。その時の涙がなかったら、今はなかっただろう。涙は、決意へと変わった。俺は政治家になるんだ、佐賀のために政治家として全力を尽くすのだと、決意した瞬間だった。小学校   6年の熱い夏の日だった。
 
 

「佐賀市という二つの意味」

 
例えば、私たちは、休日に旅行に行く。降り注ぐ太陽の日差しを受け、突然降りかかるゆうだちの中を傘をさして歩く。 旅行は、意味の羅列だ。街の歴史や、知らない街の空気を吸うこと、新しい料理を食べること。私たちは、知らない街の意味という深淵に出会うために、日本や世界の「屋根のない」街を旅する。 宮﨑市議会議員は、LCCで佐賀空港に降り立つ海外からの旅行者や、東京から来た人たちが、佐賀市という意味に目もくれず観光バスに乗って、どこかに行ってしまう事実に直面している。
 
「佐賀市は、今物語が欠けて、歩く意味のない一つの点にすぎない街になった」 そういう風に語る宮﨑は、バブル全盛期の人ごみに溢れた商店街に生まれ育った。どの商店街の大人も、柔らかく、優しかった。しかし、時代が繁栄するのと裏腹に、モータリゼーションが到来した。時代も左右した。大店立地法が制定され、郊外に「駐車場と屋根のある」街が形成された。ついに今、自分が生まれ育った商店街をも、佐賀の人の目にも、商店街という形態が時代に迎合しないと言われる現実がきてしまった。
 
「商店街で育ったことと市議会議員という立場は、何も相反さない。佐賀市の看板を背負っているから、私は選挙に出たんだ。」
 
 彼が育った唐人町商店街から市議会議員が出たのは、実に 45年ぶりのことだ。佐賀市は唐人町商店街などの振興と街の活性化に躍起になっている。 佐賀市の経済の要、それが、宮﨑たけしなのだ。
 

「佐賀の中心に住んできた意味を噛みしめて」 

 
宮﨑の公約は極めてシンプルだ。富山市や北九州市などで成功を収めているコンパクトシティの佐賀市への導入だ。  しかし、この問題は難しい点がある。それは佐賀が富山や福井のような盆地でもなく、博多と陸続きの平野であることだ。  歴史を紐解いてみると、佐賀市の中心街は、もとは港湾都市だった歴史が浮かび上がる。
 
今の繁華街がある佐賀市には、一本の川をたどって小さな船舶が入り、物資や人々が入り乱れる都市だった。佐賀市の川は、有明海の海水を汲み、現在日本一の家具業界が集結する福岡県の大川市、またブリヂストンを輩出した福岡県久留米市と連結し、博多を凌駕する一大都市圏を築いていた。宮﨑が育った唐人町商店街も元は隆々たる問屋街であった。やがて、船舶が大きくなったことで、博多港の需要が高まり、佐賀は福岡にその地位を奪われた。繰り返すように、富山や福井という盆地のように狭い空間に人々が集う地形ではない、佐賀市に、果たしてコンパクトシティという形態は定着するのだろうか。
 

 

「一つの決意」

 
宮﨑は断言する。「政治家の都市開発という政策立案によって佐賀でも必ずコンパクトシティは実現する。」 佐賀の都市開発は、決して一人当たり   GDPが高いとは言えない県民のバランスシートによって、郊外の安い土地に需要が集まってしまった。その結果、無秩序な都市が出来た。実際に佐賀市郊外には今でも一軒家が至る所に気前よくできている。 高齢社会を迎える日本において、その無秩序な住宅群は、のちに郊外に住む住人が歩くことすらできない年代になった時、税金で公共インフラを整備せざるをえずさらに未来を担う子どもたちに借金という責任を押し付けることになる。
 
「政治家は結果がすべてである。 中でも次の世代を考えることが大事なんだ。」
 中心市街地もインフラが完全に整備されているわけではない。しかし、未来のために、コンパクトシティ構想の旗を降ろさない。だからこそ、今、佐賀市の商店街ができることをやるんだと、自責を込めて結果を求める。宮﨑の目は、常に未来に向かっている。
 
 

 

「誰よりも身近な議員として」

 
宮﨑には、生まれてみたことのない二重の世界に生きている。グローバルという佐賀に来る他者から見た佐賀という意味。 もう一つは、ローカルという住みよい街としてのうちの目。 宮﨑は今、自分の立場を理解し、それをどこまでも追及している。 だから、いつも、彼の携帯に、ホームページに、彼の眼前に、人が訪れることを願っている。 
 
「俺一人では佐賀という未来のストーリーはつくれない。みんなの総意をまとめるのが俺の役目だ。」
 
 どれだけののしられても構わない。彼が今聞きたいのは、人の熱い思いであり、佐賀に対する愛を言葉にして、自分に伝えて欲しい、そう心から願っている。 議員らしく、「困っている人が笑顔になってくれることが一番やりがいだ」という宮﨑。
 
36歳でありながら、思いを熱くもった一人の議員。彼は終わりのない仕事をいつまでも全うし続けている。
 
取材先
佐賀市議会議員 宮﨑たけし
事務所 佐賀県佐賀市唐人1丁目1番16号
0952-26-5458
090-5943-1095
https://miyazakitakeshi.com/